「どういうかたちで自分のなかにその欠点が居座っているかに目を向け、そのことを受け入れると、欠点を手放すことができるし、新しい生き方へと進んでいける」
ベーシックテキスト P.55
性格上の欠点を取り除こうとする気持ちが自分にどのぐらいあるかは、その欠点を自分がどう呼んでいるかにもかかっているようだ。欠点について誤った名称を使っていれば、それほど「欠点」のようには思えない。そうすれば、そのとき与えたダメージに目を向けることもないだろう。まったく害がないものなら、それを取り除くことをハイヤーパワーにゆだねる必要などないからだ。
たとえば「人によく思われたい」という一例を挙げてみよう。人によく思われたいからといって、それほど悪い意味があるようには聞こえない。だれにでも優しく接する人のことではないのか。だが、そうだとは言い切れない。単刀直入に言えば、それは不正直であり、巧みに自分の感情を操作していることだ。自分の感情や信念や要求にウソをつき、人をおだてながら、実は相手を自分の望みどおりにしようとしているのだ。
あるいは、「気楽にやっている」と自分では思っている仲間がいる。だがそれは、「気楽に」家事をサボり、対立を避け、マンネリといえどもお気楽なやり方にどっぷり浸かっているだけではないだろうか。だとしたら、それは「怠惰」とか「優柔不断」とか「恐れ」という言葉がふさわしいだろう。
自分の性格上の欠点を見極めるのはなかなか難しい。私たちがもしそういう状態にあるのなら、スポンサーやNAの仲間たちに相談してみる。そのときには、自分の行動をはっきりと正直に示す。時間がたつにつれ、自分の性格上の欠点を見極めることがだんだんうまくできるようになり、本当の名称で呼ぶことができるようになるだろう。
今日だけ:私は自分の欠点をウソのない名称で呼ぶつもりだ。それがうまくできなくなったら、スポンサーに助けてもらおう。